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1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、広島は世界で初めて原子爆弾による被害を受けました。
あの日、広島で何が起こったのか。
広島平和記念資料館では、被爆者の遺品や被爆の惨状を示す写真や資料を収集・展示しています。写真から戦争や原爆の恐ろしさを学びます。
広島平和記念資料館が所蔵する被爆後の広島市内を撮影した写真の一部を紹介します。
(画像の無断利用はかたくお断りします。)
タイトル/米軍機より撮影したきのこ雲
撮影者/米軍
提供者/広島平和記念資料館
撮影日時/1945年8月6日
~写真の説明~
1945年8月6日、原子爆弾が広島市に投下された。松山市上空から撮影した。
タイトル/広島県産業奨励館(原爆ドーム)と爆心地付近
撮影者/米軍
提供者/広島平和記念資料館
撮影日時/1945年11月
~写真の説明~
建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼した。爆風がほとんど真上から到着したため、建物の壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらした。
広島平和記念資料館では、原爆の犠牲になった方が身につけていた衣服や熱線で焼けた様々な物、被爆の惨状を伝える資料を公開しており、その一部を紹介します。
(画像の無断利用はかたくお断りします。)
資料名/縫い針の溶融塊
所蔵/広島平和記念資料館
~資料について~
高熱火災にあったもの。
資料名/弁当箱
寄贈者/加納 恒治
受入年月日/2011年8月24日
爆心地からの距離/700m
~資料について~
寄贈者の弟の加納幸治さん(当時12歳)は、建物疎開作業中に被爆した。原爆投下の翌日から父の武さんが何度も探しに行ったが、幸治さんは見つからなかった。遺品として受け取った弁当箱を66年間仏壇に祀り大事にしてきた。
資料名/女学生の救急袋
寄贈者/藤井 政子
受入年月日/1972年11月19日
爆心地からの距離/550m
~資料について~
藤井満里子さん(当時13歳)は、学徒動員先の建物疎開作業現場で被爆した。父の主計さんと姉の暁美さんが探し回ったが、満里子さんを見つけることはできなかった。9日に主計さんが満里子さんの救急袋を発見し、持ち帰った。救急袋には、薬品や1歳3か月の弟のおしめが整理して入れてあった。
資料名/三輪車
寄贈者/銕谷 信男
受入年月日/1985年9月6日
爆心地からの距離/1500m
~資料について~
信男さんの長男伸一ちゃん(当時3歳11か月)は、自宅前で、三輪車に乗って遊んでいるときに被爆した。全身に火傷を負い、その夜亡くなった。信男さんは伸一ちゃんの遺体を焼く気になれず、焼け焦げた三輪車と共に庭に葬った。
被爆40年目に墓所に移す決心をして掘り起こし、葬式をした。
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