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伊達氏天文の乱

印刷ページ表示 更新日:2013年10月3日更新

「伊達氏天文の乱」は、だて市政だより2012年(平成24年)1月号から2012年(平成24年)11月号にわたって掲載しました(全11回)。

第1回 伊達氏天文の乱(1)

伊達氏天文の乱の画像1 伊達氏天文の乱の画像2

 戦国時代、この伊達の地で天文11年(1542)から17年(1548)の7年間にわたる、伊達家の大きな内乱が起こりました。それは、伊達氏14代の稙宗(たねむね)とその息子の晴宗(はるむね、後の15代)の親子によるものでした。
 稙宗は、天文元年(1532)に本拠地を梁川城から現在の桑折町の桑折西山城(にしやまじょう)に移します。このころ、稙宗は、自分の息子や娘を近隣の大名の家に養子に出したり嫁がせたりすることで、勢力の拡大を図っていました。
 その中で、稙宗は息子の時宗丸(後の伊達実元(さねもと) )と越後国(えちごのくに、現在の新潟県)の上杉家の養子縁組を進めようとします。
 しかし、時宗丸に大勢の伊達家臣が付き従ってそのまま上杉家に留まることで伊達家の無力化を恐れた晴宗は、この話に強く反対します。 これを契機として親子は対立し、ついに稙宗は晴宗によって桑折西山城に幽閉されてしまいました。
 ここから、稙宗派と晴宗派に分かれた内乱が始まったのです。幽閉事件が起きると、稙宗派の家臣は西山城から稙宗を救出し、懸田城(かけだじょう、現在の掛田・茶臼山)に逃げ込みます。
 ここは稙宗の娘婿である懸田俊宗(としむね)の城であり、懸田城はこの後、内乱の中で稙宗側の拠点として重要な役割を担っていくこととなります。
 天文の乱では、伊達氏が南奥羽全体に強い影響力を持っていたことから、伊達家内だけではなく、周辺の大名や領主たちを巻き込んだ大規模なものへと発展していくこととなりました。乱の展開や終結については、次回見ていくことにしたいと思います。

第2回 伊達氏天文の乱(2)

伊達氏天文の乱の画像3

 天文の乱では、多くの大名が稙宗側と晴宗側に分裂し、戦いを繰り広げました。 稙宗の側についた大名には、霊山町掛田の茶臼山に城をかまえた懸田氏、相馬地方を支配した相馬氏、二本松の畠山氏などがおり、県外では宮城県亘理の亘理氏、山形県山形市の最上氏など、広きにわたりました。
 晴宗側の大名には、会津を支配した蘆名(あしな)氏、須賀川の二階堂氏、県外では宮城県大崎地方の大崎氏や白石地方の白石氏などがいました。山形の高畠に城を持った小梁川氏などは、同じ家中でも稙宗側と晴宗側に対立しており、この乱の混乱の様子がうかがえます。
 このように、室町時代の伊達氏は、南奥羽全体に強い影響力を持つに至っていたため、戦は福島県内だけでなく、宮城や山形、新潟の大名なども巻き込んで広がっていき、福島県外でも戦いが行われました。
 乱ははじめ、現在の福島市信夫大森や、伊達市上保原高子などで戦いが繰り広げられ、稙宗側の優勢で進んでいきました。たびたびの合戦で晴宗側は敗走を重ねましたが、特に、高子での合戦のときに晴宗勢は大勢の死者を出したとされています。
 このとき、武将である相馬顕胤(あきたね)が、敵味方の区別なく死者を埋葬して首塚を作ったと伝えられています。この相馬氏の思いやりは後々まで評判になったといいます。現在、この合戦の舞台となった上保原の内山には、首塚と呼ばれる塚がありますが、このときの高子原合戦のものだといわれており、山中にひっそりとたたずんでいます。次回は、乱のこの後の展開や、終結について見ていこうと思います。

第3回 伊達氏天文の乱(3)

伊達氏天文の乱の画像4

 大名や家臣たちが稙宗側と晴宗側に分裂し、大きく混乱した天文の乱ですが、事態はさらに混乱していきます。稙宗と晴宗は、どちら側につくかをはっきりしていない人々に対して、自分の味方になれば褒美として土地を与えるという条件を出して味方に引き入れようとしました。
 しかし、稙宗と晴宗の両方が多くの書状を出したため、土地の持ち主が分からなくなる事態を招く結果になりました。この二人の駆け引きについては、次回以降に詳しく見ていきたいと思います。
 戦いは、初めは稙宗有利で進みましたが、乱が始まって6年目の天文16年(1547)に、稙宗側であった三春の田村氏と会津の蘆名(あしな)氏が仲が違いを起こします。その結果、蘆名氏は晴宗側に立場を変えることになりました。この蘆名氏の離反をきっかけに、稙宗から晴宗へと立場を変える者が次々と現れ、戦況は晴宗有利に大きく傾いていったのです。
 乱が混乱を極める中、ついに天文17年(1548)年、時の将軍室町幕府第13代足利義輝から和睦の命令が出されました。この命令により、稙宗は隠居して晴宗に家督を譲ることになり、実質的には稙宗の敗北という形で7年に及んだ乱は幕を下ろしたのです。
 稙宗は宮城県丸森町の丸森城に隠居し、晴宗は山形の米沢城に本拠地を移して、それまで本拠地だった桑折西山城は廃城となりました。 この内乱によって、伊達家の支配下にあった大名は分裂し、伊達家の勢力は減退することとなります。また、和睦の後も晴宗に抵抗を続ける大名も残るなど、後々まで伊達家に影響をもたらしたのです。

第4回 伊達氏天文の乱(4)

伊達氏天文の乱の画像5

 天文10年(1541)年に始まった天文の乱ですが、そのさなか、稙宗と晴宗の間で駆け引きが行われます。 稙宗と晴宗は天文12年(1543)年ごろから、どちら側につくかをはっきりさせない人々に対して、土地を保障する内容の書状を発行していきます。土地を与えることを条件に、家臣たちを自分の味方に引き入れようとしていったのです。
 ところが2人から多くの書状がむやみに出されたために、さまざまな問題が起こります。同じ人物が稙宗・晴宗の双方から書状をもらう例も少なくなく、中にはこのことが原因で、親子内で稙宗側と晴宗側に分裂した例もありました。
 宮城県名取郡を治めていた福田一族は、乱の初めは稙宗側で参戦しており、その中の福田玄蕃(ふくだげんば)という人物も、稙宗からの書状で土地を与えられる約束がされていました。しかし稙宗側から晴宗側に離反者が出てくるようになると、晴宗は福田玄蕃を味方にしようと、身体の保証と土地を与える約束の書状を送りました。
これがきっかけで福田玄蕃は晴宗側に寝返ってしまったのです。しかし玄蕃の父である福田備後守(ふくだびんごかみ)は、晴宗側に転換するのを受けいれませんでした。
そして備後守はすでに隠居していたにも関わらず、稙宗側として戦いに参戦し、結果父と子が争うことになったのです。
 このほかにも、書状を多く出した結果、天文の乱が終結した後にはだれが領主であるのか分からないという非常に混乱した状態が起きるなどの問題が生じてしまいました。 したがって乱に勝利して家督を継いだ晴宗は、乱の間に出した書状を整理し、改めて土地を与え直すなどの手続きを行わなければなりませんでした。

第5回 伊達氏天文の乱(5)

伊達氏天文の乱の画像6

 天文の乱は、晴宗側の勝利となりました。乱の後に晴宗は、乱の最中から拠点としていた山形の米沢城に本拠地を移しました。こうして伊達家は福島の伊達から離れていきました。
その後、独眼竜伊達政宗も米沢の地で誕生し、後に仙台へと移っていくのです。 家督を継いだ晴宗は、乱の勝利者といっても、その後の戦後処理に大きく手を焼くことになりました。 乱の最中に稙宗と晴宗がそれぞれ家臣達に「自分の味方になれば土地を与える」という書状を多く出したために、だれが領主であるのか分からない非常に混乱した状態となっていました。
晴宗はこれらの混乱を解消し、家臣達を再び統制するために『晴宗公采地下賜録(はるむねこうさいちかしろく)』というものを作り、乱の間に出した書状を整理して、改めて家臣に土地を与え直す手続きを行ったのです。
 また、長引いた乱のために伊達家は家臣を統制する勢力が弱まり、家臣達の権限を強くすることを認めなければなりませんでした。たとえば、晴宗は自分につき従った小梁川氏に、彼の領地の税金の徴収権や領地での犯罪を自ら処罰する裁判権など、さまざまな特権を与えました。 このほかにも、乱までは家臣に段銭(田地の広さに応じた税金)や棟別銭(家屋の数に応じた税金)などを負担させていましたが、乱の後はこの政策を改めなければなりませんでした。
 このように、天文の乱によって伊達家の勢力は弱まり、家臣たちが力を持つようになっていったのです。 また、乱が終結した後も稙宗側であった懸田氏が晴宗に抵抗し続けるなど、晴宗の苦労は続きました。

第6回 伊達氏天文の乱(6)

伊達氏天文の乱の画像7

 天文の乱は、室町幕府13代将軍足利義輝の和睦の命令によって、天文17年(1548)年に終結しました。しかし、晴宗が家督を継いだ後も抵抗し続けた人物がいました。それが、現在の霊山町掛田の茶臼山に城をかまえていた武将、懸田俊宗、そしてその息子義宗でした。
 懸田氏が城をかまえた懸田城についてですが、築城者や時期などは明らかになっていません。しかし、南北朝時代の建武2年(1335)年に南朝方の北畠顕家の命により、福島の杉目を本拠にしていた高松定隆が掛田の茶臼山に懸田城を築いて城主となり、懸田氏を称したといわれています。その後も代々が懸田氏を称していきました。
天文の乱に登場した懸田俊宗は、乱の敗者稙宗の娘を妻に迎えており、稙宗から見れば娘婿にあたる人物です。懸田俊宗は、もちろん稙宗側として乱に参戦し、終始、稙宗のもっとも有力な将として活動しました。 乱が始まった当初、天文12年(1543)年には、稙宗側の陣が懸田城に置かれました。その後、本陣はさまざまな場所を転々と移動しますが、懸田城はたびたび稙宗の本陣として、何度も戦いが繰り広げられる重要な場所になったのです。
 しかし、懸田俊宗をはじめとする武将の奮闘むなしく、晴宗側の勝利で乱が終結します。稙宗側の中心的存在だった懸田俊宗は、懸田城を破却され、所領をも没収されるという大きな仕置きを受けることになりました。 懸田俊宗はこの措置に不満を抱き、晴宗に反抗し続けるという行動に出たのです。

第7回 伊達氏天文の乱(7)

伊達氏天文の乱の画像8

 乱の敗者の稙宗側だった懸田俊宗は、懸田城の破却と所領の没収という措置に不満を抱き、最後まで晴宗に抵抗を続けました。 稙宗と晴宗は、家臣を自軍に引き入れるために土地を与える約束を大量に行いましたが、さすがは晴宗、なんと懸田氏との争いでも全く同じことを行ったのです。晴宗は懸田の家臣の鹿股助三郎、今村長門という人物に、土地を保証すること、新しく土地を与えることを約束します。
これによって二人は俊宗から晴宗の味方に寝返りました。 また、寝返った家臣の中に中島伊勢義康(なかじまいせよしやす)という人もいましたが、彼はとくに後々まで懸田氏と因縁が深かった人物です。中島氏と懸田氏については、次回以降説明していこうと思います。
 戦国時代、一族内の内乱は珍しいことではありませんでした。家臣たちが、分裂したどちらの主君の味方に付くのかはとても重要なことで、勝者の側に付いていれば良いものの、敗者の側に付いていれば没落してしまうなど、将来に非常に大きく関わることでした。家臣は、自身の利益を第一に考えて立場を決めていきました。
鹿股氏や今村氏も、懸田氏側の負けを見通し、晴宗側に寝返ったのです。 懸田俊宗は、これらの家臣の寝返りもあって不利になり、追い詰められて懸田城から月舘・川俣の方へ逃げていきます。しかし、最後は一人も残さず殺され、俊宗とその子義宗も斬り殺されて、ここで懸田氏は滅亡することになったのです。
 稙宗側の最有力家臣であった懸田氏を滅ぼしたことにより、晴宗の政権はやっと安定して確立することになりました。

第8回 伊達氏天文の乱(8)

伊達氏天文の乱の画像9

 霊山町掛田の茶臼山に居城をかまえた懸田俊宗は、天文の乱で滅びましたが、彼には妻がいました。俊宗の妻は、彼が付き従った伊達稙宗の娘であり、俊宗は稙宗の娘婿に当たります。
 俊宗の妻は懸田御前と呼ばれており、たぐいまれな美人で、奥州随一であったと伝えられています。 俊宗は戦いに敗れ、晴宗によって懸田城は破棄されて、俊宗と息子義宗は殺されました。しかし稙宗の娘である懸田御前だけは許され、現在の保原町に住み、その後仙台に移ってそこで亡くなったといわれています。
 ですが、懸田御前については別な説も伝えられています。もともとは俊宗の臣下だったものの、晴宗側に寝返った中島伊勢義康という人物がいました。彼は、主君の妻である懸田御前にずっと想いを抱いており、懸田城が落ちた後、ここぞとばかりに彼女を妻にしようとしたのです。
 しかし、御前は誘いを必死に断ります。中島はこれに激怒し、御前の息子の松梅丸を捕え、現在の川俣町の川で斬り殺したのです。その後、御前が中島を呪い殺す祈祷を行っているとのうわさを聞いた中島は、御前を生きながらにして深い沼に沈めて殺してしまいました。
 これ以後、中島の家系には男子が生まれず、代々養子となるのですが、これは裏切りによって懸田城を滅ぼされ、息子まで殺された御前の呪いによるといわれました。 天文の乱の悲劇を象徴する懸田御前ですが、現在では、茶臼山の中腹に懸田御前の観音堂と呼ばれるお堂が建っており、激しい戦いが行われた懸田城の跡を見守るようにたたずんでいます。

第9回 伊達氏天文の乱(9)

伊達氏天文の乱の画像10

 前回の「悲劇の懸田俊宗夫人」で登場した中島伊勢義康は、懸田御前を妻にしようとして失敗し、御前とその息子を殺してしまったと伝わる人物です。彼はもともと、天文の乱の中では稙宗側の武将である懸田俊宗の家臣でした。
 彼は『伊達正統世次考(だてせいとうせじこう)』によると、稙宗が晴宗に敗れた後、懸田俊宗から離反して晴宗の味方になったとされています。
 晴宗はこの中島氏の行動を賞して、彼に下保原の土地を与えました。中島氏の居城の位置は、はっきりとは分かっていませんが、現在の保原薬師堂の周辺が保原城または中島城だったと言われています。現在、中野病院の脇に、保原城趾との標柱が立っています。 中島氏が与えられた保原の地は、もともと懸田氏が治めていた土地でした。懸田氏は、元家臣に領地を奪われ、懸田城を破却されたことに不満を抱き、晴宗と中島氏に反抗して争いを起こしましたが、最後は晴宗側の兵に斬り殺されてしまいました。 乱の後、中島氏は伊達家に仕え、宮城県丸森町の金山の地に移って金山城主となりました。晴宗の息子、伊達輝宗が伊達家の当主になってからは、中島氏は相馬を治めた相馬氏との戦いの最前線として活躍しました。相馬氏は天文の乱で稙宗側であったので、晴宗の血筋である乱後の伊達氏とは敵対する関係になったのです。
 伊達氏と相馬氏との争いは長い間続きましたが、中島氏は戦いの功があり、伊達家の重臣として名を連ねるようになりました。 その後も中島氏は、幕末に至るまで、金山の城主として伊達家の領地を守り通していったのです。

第10回 伊達氏天文の乱(10)

伊達氏天文の乱の画像11

 伊達晴宗 による父稙宗 の幽閉 に端を発した天文の乱ですが、乱の根本的な原因は、稙宗の強硬な政策にあったと考えられています。稙宗は、伊達領内の法令集となる「塵芥集」を制定し、領内での裁判権の集約を図っていきます。
また、「棟役日記」「段銭古帳」を製作し領内の税制の整備を図ります。これらの政策により伊達氏は、戦国大名として発展していく礎を築くこととなりました。 稙宗によるこの様な強硬な政策は、水面下での家臣の反発を煽ったと考えられ、その結果として伊達実元の上杉家への養子縁組を引き金として、伊達家中を二分し、南東北一円を巻き込んだ天文の乱へと発展していったのでした。特に伊達家の重臣であった桑折氏や中野氏は、強く反発したとされています。
 伊達の家臣達は、この様な状況の中、戦局をにらみながら、次第に稙宗方と晴宗方に分かれていくこととなり、家中で争う悲劇を生むこととなりました。 乱は、天文17年(1548)に和睦による晴宗方の勝利として終結し、晴宗は、領内の安定を図るための処置として所領の再配分を行いました。しかし、これらの処置に不満を持った懸田俊宗は、中島伊勢守の所領となった懸田領に侵攻し、伊達晴宗が討伐に出陣するまでに至っています。
 この様に、乱は、終結後もくすぶりを見せたのでした。そしてこのくすぶりは、晴宗の子息である輝宗の代まで続くこととなります。このことについては、次回触れていくこととします。南東北一円を巻き込んだ天文の乱の終焉は、伊達家とその家臣にとって大きな痛みを残しました。このことは、争乱の処理には、長い時間が必要となること、そして、多くの困難が伴うことを物語っています。

第11回 伊達氏天文の乱(11)

伊達氏天文の乱の画像12

 伊達晴宗は天文の乱の後、父稙宗が築城した桑折西山城を破却し、米沢に本拠を移しました。その後は乱の処理に追われることになります。伊達稙宗が行った政策は、家臣たちが獲得していた税の徴収や裁判権などの権限を停止し、稙宗自身に権限を集約させる強硬なものでした。 このため、晴宗は天文の乱の後、家中の団結を図るため、権限を家臣に戻していくといった緩和政策を図らなければなりませんでした。
 多くの権限が戻された家臣の一人に中野宗時 がいます。宗時は、稙宗が制定した法令集である「塵芥集」にも深くかかわった人物で、伊達家の重臣の一人でした。天文の乱では、晴宗方として働き、晴宗方を勝利へ導いたとされています。宗時は天文の乱の後、五十沢を含め四郷の惣成敗職を与えられ、伊達家の代官として税の徴収・裁判の判決なども下せる権限を持ちました。
これらの家臣の権限を抑え込んだのが、晴宗の子息、伊達輝宗になります。 元亀元年(1570)、宗時の謀反が露見する事件(「元亀の変」)が起きます。宗時は、事件の最中、牧野久仲の居る小松城に立て籠もり、その後、相馬へ逃れたとされています。そしてこの事件により宗時に対し輝宗の許しが出ることはありませんでした。
 この「元亀の変」をきっかけに、晴宗以来多くの特権が与えられた中野・牧野・田手などの伊達家の重臣たちは、大きく後退することになりました。天文の乱の恩賞で多くの権限を取り戻し、発言権を強めた家臣たちを失脚させ、伊達家中の統一を図ったのは、輝宗でした。
 こういった点からみれば戦国大名として名を馳せた独眼竜政宗の領国経営の基盤を築いたのは輝宗だったのかもしれません。また、本当の意味で「天文の乱」に終止符を打ったのも輝宗と言えるのではないでしょうか。

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