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阿武隈川の梁川橋近くに八幡の森が見えます。ここの八幡宮は、古くは梁川の八幡宮として信仰があり、伊達氏が入部してからは伊達氏の保護を受け、伊達六十六郷の惣社として威容を誇りました。鐘楼や観音堂、三重塔跡、園地などが長い参道の両側に残り、いまも往時の面影を残しています。
伊達氏が去った近世も惣社としての立場は続き、別当寺は龍宝寺・亀岡寺などが勤めました。境内にある鬼石観音堂は信達三十三観音の最終札所として信仰を集めました。今も礎石が残る三重塔は平泉藤原秀衡の建立の伝えがあります。
伊達氏と八幡神社
文治5年(1189年)以降、伊達郡を領した伊達氏の氏神として鎌倉の鶴岡八幡宮に分霊を請じ、迎えてまつったのが亀岡八幡宮(現八幡神社)です。かつては伊達氏の総鎮守。天正10年(1582)には独眼竜として知られる伊達政宗が、初陣の際、必勝祈願のために参詣しました。
梁川城を鶴(つる)が岡、八幡神社を亀(かめ)が岡と呼び、梁川城から梁川八幡神社までの参道沿いには、延々と続く松並木があったとされています。
別当寺龍寳寺
社殿東方にある別当寺の龍寳寺は、信達三十三観音巡礼所の結願寺でもあり、その山門は、萱葺屋根、一間一戸の薬医門で、屋根は東風のふくらみがある「むくり屋根」、切妻にも地方色のある巧みな切り込みが施されています。建立は近世と推定されていますが、中世の城門、社寺門の遺風が見られます。また、鐘楼など中世の姿をとどめる境域として貴重なものです。
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