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梁川城跡は、伊達氏11代持宗から14代稙宗まで伊達氏の本拠として整備されました。大永2年(1522)に稙宗が陸奥国守護に補任され、梁川城跡は、南奥州における政治的中枢をになう場となっていきます。稙宗が、桑折西山城跡(伊達郡桑折町)に本拠を移してからも梁川城跡は、その役目を終えることなく政治的に重要な役割を果たしたと考えられています。
伊達氏が本拠を米沢に移してからの梁川は、蒲生氏を経て上杉氏の領地となります。上杉氏支配の段階に梁川城跡は、上杉景勝と軋轢を増す伊達政宗への対策として大規模な改修が加えられました(図1)。北三の丸に残る桝形虎口や大規模な堀跡・土塁などは、この当時の姿を良く残しています(写真2)。
梁川の地はその後、尾張藩主徳川光友の3男松平義昌が梁川藩3万石を立藩しました。梁川藩は、2代義方、3代義真と続き、4代通春(徳川宗春、尾張藩3代藩主徳川綱誠の19男)が尾張本家を継いだため廃藩となりました。その後、天領(幕府直轄地)などを経て、幕末には松前藩領となり明治維新を迎えることとなります。
現在、梁川城跡の一部は、伊達氏梁川遺跡群として国の史跡に指定されています(写真3)。中世伊達氏の本拠として機能した伊達氏館跡の内部には、「心字の池」庭園跡が復元され今も残されています(写真4)。東北地方の中世の館として内部に庭園跡が確認されているのは、現在のところ伊達氏梁川遺跡群のみであり、奥州における伊達氏の政治的立場を考える上でも貴重な遺跡と言えます。
写真2
図1 写真3
写真4
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