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名所旧跡を訪ねて

印刷ページ表示 更新日:2013年7月8日更新

 伊達市の文化財「名所旧跡を訪ねて」は、だて市政だより2009年(平成21年)4月号から2010年(平成22年)12月号に全20回にわたって掲載しました。

第1回 西念塚(伊達)

人柱となった西念法師

伊達地域の川原町には、ひときわ大きいケヤキの大木が高く聳えています。樹齢は300年以上あろうと思います。昭和年3月に福島県緑の文化財に登録58された立派なケヤキの巨木です。
この大ケヤキの根本に「西念法師塚」の石碑が建っています。隣には諏訪神社と西念堂があります。碑には「寛文8年4月8日・・・」と刻まれています。ここは、旧長倉村の南端に近く、南隣は摺上川を挟んで福島市瀬上です。

西念法師は、江戸時代の寛文8年(1668)に摺上川の洪水を鎮めるために人柱になった方です。そのころの摺上川はたびたび洪水が起こり住民はたいへん困っていました。「人柱」とは、自ら生き埋めとなり、その身をカミやホトケに奉げて、災害の鎮静や疫病退散などを願うものでした。
川原町の人々は毎年4月8日に西念法師の供養祭を催してきました。現在は4月の第2日曜日に行っています。

西念法師の願い

西念法師の生まれは野州都賀郡(現在の栃木県栃木市付近)です。仏門に入った西念は諸国修行の旅に出ましたが、旅の途中で、偶然に伊達郡長倉村の田町という所で風雨にさらされて傷みの激しい薬師如来像にめぐり会いました。西念は仏さまのお引き合わせと歓喜し、薬師堂を建てて安置したいと願をかけ、供養のお勤めを毎日続けておりました。
しかし、人柱となるため、薬師堂建立の願いは果たせなくなりました。弟子の浄心に遺した遺言に「死後に自分の墓を建てるよりも薬師堂を建立してほしい」と夢を託しました。
現在、田町に立派な薬師堂が建ち、西念の墓も建っています。西念の夢はかなえられたのです。
西念塚と大ケヤキと関係古文書は、昭和56年2月に伊達町(現伊達市)指定文化財になっています。

第2回 下手渡藩陣屋跡(月舘)

三池から下手渡へ

月舘地域から川俣町に向かう途中の下手渡字天平地内に陣屋の跡があります。
ここは、幕末にこの地域を治めた下手渡藩の陣屋跡です。陣屋とは、城を持たない大名屋敷のことです。
下手渡藩は、文化3年(1806年)に政争に敗れた三池藩(現在の福岡県大牟田市)立花家が陸奥国伊達郡下手渡に左遷されたことにより、1万石で立藩し、明治元 年までの63年間続きました。
今では当時の面影はありませんが、旧藩士の手により建てられた「懐古の碑」が、当時の善政を伝えています。
下手渡藩は小さい藩でしたが、名家の一つでした。 当藩二代の種温侯は、天保の飢饉のとたねはるき領民の救済に尽力して餓死者を出さず、名君と慕われました。
また、三代藩主の種恭候は、幕府の会計たねよし奉行や老中格を務めました。後に大政奉還の大任を果たし、明治政府となってからは学習院の初代院長に就任しました。 その後三池藩は、明治元年(1868年)に、再び三池に藩庁を移し再立藩しました。

耕雲寺の侍墓地

下手渡字上代にある耕雲寺は、藩主と家臣の菩提寺となっています。
墓地には一段高いところに、種善、種温、種恭の歴代3代の藩主の墓があり、藩主の墓に向き合う形で藩士たちの墓があります。
はるばる遠くから移住し苦労を共にしてきた、藩主と家臣の結びつきの強さを感じさせます。
下手渡藩陣屋跡と耕雲寺侍墓地は、市の有形文化財に指定されています。

第3回 上杉ゆかりの文化財(1)

慶長3年(1598年)正月、上杉景勝は、豊臣秀吉の命を受け会津若松城主となりました。これにより、伊達市周辺も上杉景勝が支配することとなります。

上杉景勝が治めた地域は、宮城県苅田郡、福島県中通地方・会津地方、山形県置賜・庄内地方周辺、佐渡の120万石という大変広い範囲でした。 上杉景勝は、会津への国替えと同時に領内の整備に取りかかり、道路網や城の整備を進めていきます。しかし、同じ年の8月に豊臣秀吉が亡くなると徳川家康の台頭が目立ち始め、伊達政宗や最上義光は、家康との連携を強めていきます。

上杉景勝は、石田三成らとの連携を強め、徳川家康との対立は、次第に深まっていきました。この頃の上杉家臣の様子を見ると、伊達市周辺は、白石(宮城県白石市)に甘粕影継(あまかす・かげつぐ) 、梁川(伊達市)に須田長義(すだ・ながよし)、保原(伊達市)に大石綱元(おおいし・つなもと) 、宮代(福島市)に岩井信能(いわい・のぶよし)、福島(福島市)に本庄繁長(ほんじょう・しげなが) 、大森(福島市)に栗田国時(くりた・くにとき)、二本松(市)に下条忠親(げじょう・ただちか) ・秋山定綱(あきやま・さだつな) 、塩ノ松(二本松市岩代町)山浦影国(やまうら・かげくに) ・市川房綱(いちから・ふさつな) を配置しています。これだけ多くの家臣を伊達市と米沢市周辺に配置したことは、上杉領の北を支配する伊達政宗や最上義光に備えるためであることを示しています。

上杉景勝と徳川家康との対立が深まる中、徳川家康は、慶長5年(1600年)5月に会津への出兵を宣言し、6月には家康自らも出陣しました。しかし、栃木県小山まで陣を進めた家康は、石田三成挙兵の報せを受け、退却をはじめ、9月には関ヶ原合戦を迎えることとなります。関ヶ原合戦の時、山形県山形市周辺は、最上と上杉の軍勢がぶつかり、「北の関ヶ原」と言われるほどの激戦地となります。しかし、伊達と上杉の軍勢が、伊達・信夫の地で激戦を繰り広げるのは、その後のことです。

次回は、この戦で大切な役割を果たした上杉方の城のひとつ、「梁川城」を見ていくことにします。

第4回 上杉ゆかりの文化財(2)

悠々と水を湛えた堀と高い土塁を備えた城跡が、梁川地区に残っています。梁川城跡です。

梁川城は、室町時代に、伊達氏の居館として本格的に整備されたといわれています。その当時の面影を残す「心字の池」は、京都の文化を東北地方に伝えるもののひとつとして福島県史跡及び名勝にも指定されています。

しかし、私たちが現在、目にする高い土塁や深い堀を持つ梁川城跡は、京都の文化を映し出した伊達氏の居館の姿ではなく、不安定な情勢の中、戦に備えるため上杉氏が作り直した城と考えられています。 慶長5年(1600年)6月に伊達成実(しげざね)・片倉小十郎(かたくら・こじゅうろう)らは、伊達政宗の命を受け、7千余の兵を率い、梁川城の攻略を行ったといわれています。しかし、梁川城城代の須田長義(すだ・ながよし)らの上杉勢は、これら伊達の兵を退けたと伝えられています。 また、同じ年の10月3日には伊達政宗が、2万兵を率いて、本格的に信夫・伊達の地に攻め込んだことが伝えられています。伊達側の兵は、北目城(きため)を出発し、5日には白石城から国見に足を進め、政宗の本隊は、長倉(伊達地区)から摺上川をわたり、宮代・鎌田(福島市)を攻め落としながら、信夫山の麓ふもとに陣を構えたといわれています。

この時、梁川城より須田長義らの軍勢が阿武隈川を渡り、政宗本陣の背後を突き、政宗の本隊は総崩れにあったといわれています。この戦は、松川合戦などと呼ばれています。 7千もの兵を退けた梁川城は、伊達氏の居館として面影はなく、戦の世を背景とした城へと変わっていたのでしょう。

しかし、「心字(しんじ)の池」は、伊達・蒲生・上杉と主が移り変わっていった様を、その水面に映しながら、伊達氏が、この信夫・伊達の地に映し出した京都の文化の一端を、私たちに伝えています。

第5回 上杉ゆかりの文化財(3)

春には、桜が咲き誇り、「茶臼山」と呼ばれ親しまれている城跡が霊山地域に残っています。懸田(かけだ)城跡です。 桜の季節には、華やかさを見せる懸田城ですが、過去に二度の悲劇に見舞われています。

天文11年(1542年)の伊達晴宗(はるむね)による父伊達稙宗(たねむね)の幽閉に始まった「天文の乱」は、東北地方南部の領主を巻き込む大乱へと発展しました。 この時、伊達稙宗方の重臣として働いた懸田氏は、天文22年の乱の終結の際には、滅亡の道をたどっています。

懸田氏の滅亡により、懸田城が城として使われなくなった後、慶長5年(1600年)6月には、伊達氏に扇動された村人が、懸田の古舘(ふるだて)に籠もったことが記録に残されています。 この報せを受けた上杉勢の須田長義(梁川城代)は、築地修理などの武将にこの鎮圧を命じました。 また、福島城からも、上泉主人(かみいずみもんど)らが駆けつけこの騒動は平定されたと伝えられています。

懸田城に村人が籠もったのは、関ヶ原合戦が目前に迫った混乱の時期でした。この時期、上杉景勝方と、徳川家康との連携を含めた伊達政宗方の水面下での主導権争いの様子が見て取れます。徳川家康は、この年の5月に上杉討伐のための会津出兵を宣言し、6月には自らも会津へ向け出陣しています。また、この約2カ月後には、徳川家康より伊達政宗へ向けた苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井地方を安堵する内容の文書が下されています。 徳川家康と連携を深めた伊達政宗の様子が見られ、この様な情勢の中、伊達政宗に呼応する形で、村人は懸田城に籠もったのかもしれません。 悲劇に見舞われた懸田城跡は、戦国時代初頭の城跡の景観を良く残していることから、伊達市の史跡に指定され、秋には四季咲きの桜がわたしたちを迎えてくれます。

第6回 上杉ゆかりの文化財(4)

保原地区の旧保原町役場跡地周辺は、保原城という城跡でした。

上杉家の記録には、慶長3年(1598年)の国替え以降に、上杉家臣の大石綱元が配置されたことが記されています。しかし、この保原城跡の周辺は、明治以降、土地の改変が進み、城の面影は見られなくなってしました。

今回は、明治に作製された土地利用図である地籍図と発掘調査の成果から、保原城の様子を見てみることにします。

保原城周辺の地籍図をあわせ、水路・水田を染めて見ました。長方形に巡らされた、保原城の堀跡が浮かび上がりました。 この堀の様子から、保原城は大きく、二つの空間(廓)で構成されていたことが分かります。それぞれの郭の役割などは分かりませんが、発掘調査により戦に備えた保原城の様子が分かってきています。

保原城跡の発掘調査は、過去に6回行われています。その内、6回目の調査では、幅10メートル以上、深さ1メートル50センチ以上の堀跡が見つかりました。この堀跡は、地籍図ア・イの場所と一致しています。この堀跡からは、鍋やすり鉢などの破片が発見されています。この鍋やすり鉢などは、上杉氏が伊達市周辺を治めていた時期のものと思われます。また、発掘調査では、地籍図には見られない伊達氏が治めていた時に造られた堀跡も見つかっています。

発掘調査の成果を見てみると、保原城周辺は、伊達氏の時代に開発が進められ、関ヶ原合戦の頃、上杉氏により城として整備されたことが分かってきています。 特に伊達氏の段階では、伊達家14代当主であった伊達稙宗の頃のものが数多く出土しています。これは、この時期、伊達稙宗と晴宗の間に起こった「天文の乱」とのかかわりの中で整備されたことを示すものと思われます。

また、上杉氏の段階には、伊達氏との戦に備えた城としてさらに整備されたものと思われ、この城の様子が地籍図に浮かび上がっているのでしょう。 そして、これらの事実は、戦のたびにその姿を変えた保原城の様子を物語っています。

第7回 上杉ゆかりの文化財(5)

松川の合戦と新しい時代

慶長5年5月に徳川家康は、上杉討伐のため、会津への出兵を宣言し、6月には自身も出陣しています。 この頃から伊達政宗は、徳川家康との連携を図ったかのように福島盆地へ積極的に兵を進めます。6月23日には、伊達成実・片倉小十郎などが梁川城を攻撃し、24日には、政宗に扇動された村人が懸田城に立て籠もっています。

7月23日には、軍議により城主が不在であった白石城を攻め、これを攻略しています。 徳川家康は、上杉勢の足止めを図るため、7月に伊達政宗に対し、むやみに兵を進めぬよう書状を出すと同時に、自身は、栃木県まで兵を進めます。翌月には、政宗に対し「長井・苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村」地方を安堵する書状(百万石の御墨付)を送っています。
このようなやり取りの中、8月には、 直江兼続が、伊達政宗に対して兵を向ける姿勢を見せます。これを受けた伊達政宗は、この時、上杉氏との停戦を申し出たと伝えられ、この停戦により上杉の軍勢は、上杉領の北に対峙した最上氏へと向けられることになります。 関ヶ原合戦が終結した、10月に伊達政宗は、上杉領である伊達・信夫の地へと兵を向けます。3日に北目城を立ち、白石へと兵を進めます。
6日には、兵を分かち、政宗率いる本隊は、藤田・桑折へと進軍し、信夫山に陣を置きますが、福島城の本庄繁長と梁川城から兵を進めた須田長義に挟み撃ちにされ、退却を余儀なくされたと伝えられています。 5月から7月にかけての徳川家康と連動した動きを見せる伊達政宗、上杉氏に対し停戦を申し出た政宗、「百万石の御墨付」を受けながら関ヶ原合戦終了後に上杉領に兵を進めた政宗の判断や行動は、一見矛盾を帯びているように感じます。しかし、関ヶ原の合戦は、全てに決着を付け、徳川家康による政治体制が固まった訳ではなく、この不安定な情勢を背景に、伊達政宗は、上杉領内へ兵を進め、領地拡大のため精力的に動いたものと思われます。 これは、自力救済という戦国の理屈が残っていたのかもしれません。
しかし、次第に体制を固めた徳川家康は、大坂冬の陣・夏の陣で総仕上げを行い、新しい体制を築いていくことになります。

第8回 上杉ゆかりの文化財(6)

関ヶ原合戦後の信達地方

関ヶ原合戦後、慶長6年(1601年)に、上杉景勝は、徳川家康に拝謁し、この年の8月には、合戦の処分として会津120万石から、米沢へと減封されました。
この減封後の米沢藩となってからも伊達市を含む信達地方は、上杉景勝が治めることとなります。上杉景勝は、この処分を受けながらも極力家臣の召放ちを避けたといわれ、その財政の建て直しのため、養蚕業や製紙業の基礎となる桑や楮の栽培、鉱山の開発などこうぞといった殖産興業の見直しを図ったよしょくさんこうぎょううです。
また、新田開発にも力を注ぎ、用水の確保のため、信達地方では、砂子堰や西根堰の開削を行っています。伊達市を流れる砂子堰は、慶長5年に工事を始め、その完成には4年の歳月を費やしたと伝えられています。この砂子堰は、霊山町大石地区付近から北上して梁川町大関地区を抜け新田、保原町金原田地区を通り、上保原まで広瀬側の水を引き、700ヘクタールもの水田を潤したともいわれています。
西根堰は、上堰と下堰が開削され、下堰が福島市飯坂町湯野地区から桑折町伊達崎地区までの約13キロメートル、上堰が福島市飯坂町湯野地区から梁川町五十沢地区までの約29キロメートルで、900ヘクタールもの水田を潤したといわれています。
また、このような新田開発・堰の開削や管理の中心となった人々は、信達四郡役といわれた人々で、特に伊達市周辺の東根郷をまかされたのは、保原の渡部新左衛門、梁川の堀江与五右衛門などの名が見られます。
合戦の処分を受けた上杉家は、財政再建の方法として殖産興業政策に力を注ぎ、この政策の痕跡の一つとして当地方にも砂子堰や西根堰が現在に残されています。

第9回 上杉ゆかりの文化財(7)

霊山町大石地区の霊山寺には、お寺の歴史を記した文書「奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起」が残されています。
この縁起(以下、霊山寺縁起)は、寛文5年(1665年)に書かれたもので、この頃、伊達市周辺は上杉家によって治められていました。「霊山寺縁起」には、霊山寺と上杉家の関わりが詳しく記されています。
今回は、「霊山寺縁起」に記された上杉家の様子を見てみます。「霊山寺縁起」には、当地方を蒲生氏郷が治めるようになると、蒲生家家と臣の岡佐内という人物が、霊山寺の土地をすべて召し上げ、お寺の多くの建物を壊し、その材木を会津若松へ運んだと記されています。「霊山寺縁起」には、このことで霊山寺の修行僧などが、伊達政宗を頼り仙台に下ったと記されています。
領主が上杉家となり、上杉定勝の代になると信夫郡鳥和田村観音寺の職や伊達郡保原町板倉半右衛門、日枝神社の禰宜、霊山寺の住職の4人が江戸の寛永寺へ上り天海に現状を直訴したと伝えられています。寛永寺は、徳川家の菩提寺として天海により開山され、天台宗の関東総本山となる寺院です。開山した天海は、徳川家康の下、宗教政策などに強い影響力を持った人物とされています。寛永年中(1624?1644年)は、上杉家の代官であった古川善兵衛が、大石村の住民を一向宗へと改宗させたと伝えられ、霊山寺や山上の日枝神社を打ち壊そうとしたと記されています。
この顛末を霊山寺の宥源という人物が天海に直訴し、これを聞いた古川善兵衛は、天台宗に改宗し、二ノ宮(現在の日枝神社)を建立したと伝えられています。この日枝神社には、文化14年(1817年)に白河藩主松平定信により建立された「霊山碑」が所在し、市の指定史跡となっています。

第10回 伊達市内の獅子踊り(1)

季節の節目などに行われる祭礼は、五穀豊穣などの願いが込められながら執り行われ、この祭礼には神楽や田楽などといった芸能が伴うことが多いようです。
そして、これらの芸能は、祭礼とともに地域に根付き、今に受け継がれてきました。
今回からは、これら芸能の内、伊達市内に多く残る獅子踊りを見ていくこととします。
民俗芸能には、色々な種類があり、各地域で大切に守り継がれてきました。このような民俗芸能は、神楽・風流・田楽などに分けられ、特に伊達市では、風流に分類される獅子踊りが多く伝わり、伊達市内の伊達地域・梁川地域・霊山地域・月舘地域に今も残り、伝えられてきています。
福島県内の獅子頭で最も古いとされる獅子頭は、いわき市内郷に所在するもので、その獅子頭には、寛永8年(1631年)と寛永43年(1206年)と記されています。これらの獅子頭などに記された年代から、福島県内に獅子踊りがもたらされたのは、江戸時代の初めから中ごろと考えられているようです。
また、残された記録などに関東の人物の名前が記されていることから、福島県に伝えられた獅子踊りは、関東地方から伝えられたものと考えられています。
これらの獅子踊りの伝来したルートは、二つの道が考えられており、その一つが、陸前浜街道(太平洋側)を抜け、いわき地方に伝来したものが田村郡や郡山市、安達郡などに伝えられたと考えられる道があります。もう一つは、栃木県の日光街道から南会津の田島に入り、そこから会津地方に伝来したと考えられています。また、この会津のルートは、米沢まで伝えられたとされる説もあります。
伊達市内に伝えられる獅子踊りは、太鼓の有無などの特徴から、山形県米沢市の影響を受けた可能性が考えられています。江戸時代の初め、伊達市は上杉領であり、このようなことから、米沢市に残された獅子踊りの影響を強く受けたと考えられています。
しかし、伊達地域に伝えられた箱崎の獅子舞は、伊達市が、伊達領であった天正年間にもたらされたと伝えられ、上杉氏が伝えるよりも先に、伊達氏が当地方に獅子踊りを伝えていたとも考えられます。

第11回 伊達市内の獅子踊り(2)

伊達地域には、古くから伝え守られてきた獅子舞があります。「箱崎の獅子舞」です。
この獅子舞は、現在は4月29日・30日に行われる愛宕神社の例大祭にあわせて奉納されています。獅子舞の道具は、愛宕山の麓にある福厳寺に納められています。獅子頭が納めてある長持ちの蓋には、天明8年(1788年)と裏書されています。
祭礼の日には、福厳寺で身支度を整え、愛宕神社と福厳寺で舞が奉納され、祭礼の2日目には、氏子を巡ります。 愛宕神社や福厳寺の創建は、戦国時代(天文7年、1538年)まで遡ると伝えられていますが、「箱崎の獅子舞」がいつの頃から始められたかは、はっきりしていません。
ただし、社伝では、獅子踊の起源について、次のような伝承が残されています。 古くから土地が肥えていた箱崎地区でしたが、村人は、獣に畑を荒らされ困っていました。この頃、この土地の若者で「ひょっとこ」に良く似た者がいました。この若者は、毎日畑に出ては、簓(竹や細い木などを束ねた道具)をすりながら、獣を追い払っていました。
そんなある日、この若者の前に白髪の老人が現れ、「愛宕大権現のご前に獅子舞を奉納すれば、神仏のご加護により、獣の害を払うことができるであろう」と告げました。このお告げを聞いた若者は、各地を訪ね歩き獅子舞の修行を重ねました。
そして獅子舞を習得した若者は、神前に舞を奉納し、この後獣の被害はなくなったと伝えられています。 この「箱崎の獅子舞」は、古い特徴を今の時代に良く残していることや、地域ぐるみで継承活動に取り組まれ伝承されてきていることなどから、昭和57年に、福島県重要無形民俗文化財に指定されています。

第12回 伊達市の獅子踊り(3)

梁川地域には、4組の獅子舞が伊達市無形民俗文化財に指定され残されています。
川前地区の「川前愛宕獅子舞」、新田地区の「新田愛宕神社の獅子舞」、向川原地区の「向川原観音様の獅子舞」、山舟生地区の「除石観音様の獅子舞」です。
川前地区の愛宕神社は、古くに京都から勧請し、愛宕山に祀ったことが始まりとされています。戦国時代になると社殿は荒廃し、悪疫が流行したことから、寛文年間(1661?1672年)に明王印に依頼し、今の場所に社殿を再建したと伝えられています。 獅子舞もこの頃から始められたと考えられています。
新田地区の愛宕神社は、延宝2年(1674年)に江戸芝の愛宕神社の分霊を勧請したことにはじまり、獅子舞もこの頃から悪疫退散と五穀豊穣を願い奉納されるようになったと伝えられています。
向川原地区の聖観音堂は、元和元年(1615年)に大坂城落城により陸奥国に下った高橋判官という人物が、大切にしていた仏像をこの地に奉ったことに始まると伝えられていますが、獅子舞については、いつの頃から始まったかは定かではありません。ただし、道化面の裏に「文化六巳九月 米沢主伊右エ門作」(1809年)とあり、米沢からもたらされたとも考えられます。 山舟生地区除石の観音堂や獅子舞の由来については、定かではありません。ただし、笛の旋律や踊りは、「川前愛宕獅子舞」「新田愛宕神社の獅子舞」と似ていることから、これらの獅子舞と近い関係にあると考えられています。
「川前愛宕獅子舞」「除石観音様の獅子舞」は3匹獅子で、獅子は、太鼓を付けないといった特徴が見られます。「新田愛宕神社の獅子舞」「向川原観音様の獅子舞」も3匹獅子で、獅子は、太鼓を付けていますが、ばちを持たず、太鼓を打つ動作もほとんどなくなっているところに特徴があります。 福島県内の獅子踊りは、いわき地方から中通り地方を北上しながら伝わったと考えられていますが、その間に、ササラや花が次第に変化をしていったと考えられています。 ところが、梁川地域に残された獅子踊りは、古風なササラや花が使われるようになります。その反面、獅子が太鼓を持たないか、太鼓をつけても、ばちを持たないといった新しい要素が見られることが特徴とされています。

第13回 伊達市内の獅子踊り(4)

霊山地域では、3組の獅子踊が伊達市無形民俗文化財に指定されています。
大石地区に伝えられてきた、「下大石の三匹獅子舞」「大石北又獅子舞」と、石田地区に伝えられてきた、「関東案山子舞」です。
「下大石の三匹獅子舞」は、大石地区に伝えられてきた獅子舞です。踊り手は、獅子3人、軍配持ち、ささら振り、太鼓打ちからなり、獅子は、ばちを持ちます が、太鼓は付けていません。「下大石の三匹獅子舞」は、地元の伝えでは、享保年間(1716?1735)に大石地区の住人であった大槻三郎兵衛という人物 が、伊勢参りの帰り道、京都で獅子頭を買い求めたことから始まると伝えられています。
この獅子頭は、日枝神社の祭礼の日唸り声を上げたため、神意を尋ねると、世に出たいとのお告げがあり、これ以来若者たちによって舞が舞われるようになった と伝えられています。「大石北又獅子舞」は、文政年間(1818?1829)に大橋甚兵衛という人物が、秋田に赴いた際に獅子舞を習得し、伝えたのが始ま りとされています。「関東案山子舞」は、地元の伝えでは、南北朝時代に始まったと伝えられています。当時、猪の被害に苦しんでいた石田坂ノ上地区の人々 が、弓で射た猪の供養のために始めたと伝えられています。
「関東案山子舞」は、南北朝時代から始まったと伝えられていますが、「下大石の三匹獅子舞」「大石北又獅子舞」は、伊達市内に残された多くの獅子舞と同じ ように江戸時代になってから伝えられたようです。同じ大石地区に所在する霊山寺には、応永8年(1401年)に記された霊山寺の棟札が残されています。
この棟札には、「舞士」と記され、霊山寺の竣工に際して、舞が舞われたことがわかります。また、天正 年(1584年)の12棟札にも「舞士」として掃部 助・右京助・兵衛太郎・兵部といった名前が記され、舞が舞われたことがわかります。棟札が納められた時どのような舞が舞われたのかはわかりませんが、江戸 時代以前から神事には、舞いなどの芸能が伴っていたことが良く分かります。

第14回 伊達市内の獅子踊り(5)

月舘地域には、伊達市無形民俗文化財に指定されている2組の獅子踊りがあります。「上手渡小志貴神社牡丹獅子舞」と「布川熊野神社獅子舞」です。
上手渡小志貴神社牡丹獅子舞
上手渡地区の小志貴神社は、平安時代に勧請建立されたと伝えられ、戦国時代には、戦乱により衰退したとされています。しかし、渡辺大蔵坊という人物が、社 殿の再興をはかり、天正 15年(1587)に再建するに至ったとされています。この渡辺大蔵坊の功績に感謝し祭礼を行い、この時に三匹獅子舞を奉納した のがこの獅子舞の始まりとされています。 この舞は、嘉右衛門という人物が習得したものが基本となり、近野家に道具とともに長い間伝えられてきたとされて います。この近野家に、舞の技術とともに伝えられてきた張子の面が、ある夜ガタガタと音をたてたため、獅子舞を復活させたと伝えられ、現在は、小志貴神社 で一切の管理を行っています。 「上手渡小志貴神社牡丹獅子舞」は、踊り手3人、軍配持ち、道化、医者などからなり、獅子はばちを持ちますが、太鼓は付け ていません。 布川熊野神社獅子舞
布川地区の熊野神社は、慶長2年(1597)に上杉家の家臣である小梁川民部という人物が勧請したと伝えられています。戦前には、「麓山籠り」や「火渡 り」の行などが行われていたとされています。 この熊野神社には、「布川熊野神社獅子舞」が伝えられています。熊野神社の氏子であった左衛門という人物 が、伊勢参りの土産として舞を習得し、祭礼に奉納するようになったのが始まりと伝えられています。獅子3人、軍配持ち、弓持ちなどからなり、獅子は、ばち も太鼓も持っていません。ばちや太鼓の有無からも、伝えのとおり、「上手渡小志貴神社牡丹獅子舞」が古い様子がうかがえます。

第15回 霊山(1)

福島県立自然公園「霊山」の西側には、屏風のように切り立つ断崖を見ることができます。
この断崖は、今から約1700万年前(新生代)に起こった火山の噴火により積もった層で、安山岩などの溶岩や、火山の噴火により噴出した凝灰角礫岩からできています。この地層は、霊山層と呼ばれ、霊山・梁川地域の阿武隈山地に見ることができます。
この霊山層の下には、約1億年前に形創られ、福島盆地周辺の地層でも最も古いと考えられている花こうか岩類といわれる地層が広がっています。 花こう岩の 層と霊山層の間からは、アケボノスギやセコイア、ランダイスギといわれる植物の化石が見つかっています。これらの植物は、暖かい地域に栄えた植物で、現在 の日本の環境では、生息できない植物のようです。
このことは、霊山層が造られる以前、福島盆地の周辺は暖かい地域で、落葉樹や針葉樹などの森が広がっていたことを物語っています。 また、この当時の日本 列島は、ユーラシア大陸と陸続きだったと考えられています。その後、大陸から日本列島が分裂する中、火山の噴火などの活動により、霊山層が積もり始めま す。 さらに、陥没した所には、海が侵入し、霊山を含む阿武隈山地は、海に覆われたと考えられています。この間、梁川層・桑折層と呼ばれる地層が積もって いきます。 この後、福島盆地は、隆起し陸地となりましたが、地表に顔を出した霊山層は、弱くもろい性質もあり、長い年月の間に侵食され、現在の断崖とし ての姿を私たちに見せています。
霊山の切り立った岩肌は、私たち人類が生まれる以前の地球の姿を私たちに見せています。これは、人智を超えた圧倒的な自然の姿を見せているともいえるかもしれません。

第16回 霊山(2)

今回は、霊山の周りが海だった頃の話です。この頃、名峰霊山を形づくる霊山層の上を梁川層と呼ばれる土の層が覆っていきます。
この梁川層は、現在の梁川地域周辺に広く見られ、特に阿武隈川東部の梁川層の下には、砂の層がみられます。この砂の層からは、暖かく浅い海に住む貝の化石 やサメ・サンゴ・フジツボ・パレオパラドキシアなどの動物の化石が見つかっています。 この中でも、パレオパラドキシアの化石は、ほぼ全体が分かるもので す。全身の骨格は、世界でも4例しかなく、世界的に貴重な標本で、平成4年には県の天然記念物に指定されました。
パレオパラドキシアは、デスモスチルス類に属し、現在のカバに似た生き物であったと考えられています。日本やサハリン、カリフォルニアなどといった限られ た地域から発見されています。このパレオパラドキシアは、新生代中期(1600万年前) に生息し、体長1・5?2m程で、現在のコビトカバに似た哺乳類と考えられています。海辺に住み、海藻や海辺の貝などを食べていたようです。 梁川層が積 もった頃、霊山の周辺は海で、ごくわずかな陸地は亜熱帯の森林であったようです。そして浜辺には『海獣 パレオパラドキシア』が生息し、浅瀬が広がる浜辺 では、これを支える海草や貝などが息づき、生態系を形成していた様子が分かります。
また、阿武隈川西部に広がる梁川層中部は暗灰色の五十沢泥岩部層といい、この中から、ホタテガイを中心に深海の貝の化石が見つかっています。このことから、阿武隈川の西側は比較的深い海であったことが分かります。
その後、気候は寒冷化して水温も低下し、パレオパラドキシアは、これに適応できずに絶滅したようです。 梁川層の後に積もった地層からは目立った化石は発見されないので、海は後退して陸地に戻っていったようです。

第17回 霊山(3)

現在、霊山寺に残る縁起(『奥州伊達郡東根南岳山霊山寺山王院縁起』1665年)によると、霊山寺は、貞観元年(859年)に比叡山延暦寺の僧、慈覚大師円仁により開山されたと伝えられています。
円仁は、下野国(栃木県)に生まれ、仁寿4年(854年)に延暦寺座主三世になった人物で、東北地方に多くの足跡を残した人物として知られています。霊山 寺の他にも、松尾芭蕉が訪れた山形県立石寺、日本三景の一つとして有名な宮城県松島瑞巌寺、金色堂のある岩手県中尊寺などを開山したと伝えられています。  霊山寺縁起によれば、霊山は、女人結界の地であると同時に殺生禁断の霊地であることが記されています。また、霊山山中の嶺には、山王二十一社が勧請され て、麓には、3600もの僧坊が存在したと伝えられています。また、高野山金剛峰寺を開山した弘法大師空 海の足跡を記した文書(『大師御行状集記』1089年)には、陸奥国信夫郡には、霊山寺があり、弘法大師が結界を張った地であり、魔界の畏も無く、千手観 音の慈悲が施された地であることが記されています。
霊山の山中には、今も建物の基礎となった礎石が並んでいる様子を見ることができます。この礎石の周辺からは、平安時代の土器が採取されています。採取され た土器は、土師器や須恵器と呼ばれるものです。これらの土器を見ると 世紀ころの土器が多く10見られます。慈覚大師が開山したと伝えられる時期より 100年近く後の土器ですが、平安時代に霊山の山中に仏教文化が花開いた様子を見ることができます。

第18回 霊山(4)

鎌倉幕府が崩壊すると、 後醍醐天皇は、 奥州に小幕府をつくろうとしました。 元弘3年(1333年)には、 義良親王を筆頭に、 北畠顕家を陸奥守に任命し、奥州の経営の全権を委任したと考えられています。
その年の 月に多賀11国府に入った義良親王と顕家は、8名からなる式評定衆のほか2名の引付衆を配置し、政所・侍所などの組織を固めて奥州の経営方針を打り出していきました。
しかし、1335年に後醍醐天皇の許可を受けずに鎌倉に入った足利尊氏(北朝)は、陸奥の管理を自身の一族である斯波家長に与えたほか、上野(現在の群馬 県)の管理を上杉憲房に与えると、後醍醐天皇(南朝)との対立の姿勢は強まっていくことになります。 このような中、南朝方の重臣であった新田義貞の戦死 は、南朝方の士気を大きく下げることとなりました。足利の軍勢が多賀国府に迫る中、南朝方は多賀城にあった国府の役割を霊山へ移しました。 南北朝の動乱 を描いた『太平記』では、この時の状況を「顕家の卿に付随う郎 従 、皆落失て勢微々に成りしかば、僅 かに伊達郡霊山の城一つを守りて、有も無が如くにてぞをはしける」と記しています。 この後、一旦は南朝の勢力が巻き返しを図りますが、情勢は北畠顕家の 戦死などが契機となり、北朝に傾いていきました。そして足利尊氏の下、京都に幕府が開かれていくことになります。
現在、霊山には、国司館の跡とされる礎石建物跡を見ることができます。また、二つ岩と呼ばれる場所からは、青磁の花盆が見つかっています。青磁は、当時、 日本では生産する技術がなく、すべて中国から輸入されたものでした。その中でも花盆は、実用品ではなく床の間などを飾る調度品として使われたものでした。 礎石建物跡や二つ岩で見つかった青磁の花盆は、陸奥の国府が置かれた霊山の姿を今に伝えているのかもしれません。

第19回 霊山(5)

霊山寺縁起」には、南北朝の動乱の中で、山上の霊山寺が焼け落ちてから 年余りが過ぎたころ、伊達家の当主60 が、霊山の山中に廃寺があることを知り、応永8年(1401年)に「霊山寺」の再興に着手したことが記されています。再建された場所は、霊山大石地区の宮 脇地内と考えられてきました。 霊山史蹟民衆調査会が大正 年に霊13山を調査し編纂した『霊山の栞』には、「其後西麓(大石字宮脇)に名残をとどめぬ、 然れども悲運は悲運を追ひ来りて、又々失火の為灰燼に帰す」と記され、宮脇の地(宮脇遺跡)に霊山寺が再建されたことにふれています。
また、この宮脇遺跡では、「半截菊花文」という文様のある軒平瓦が見つかっていました。最近の研究の成果では、「半截菊花文軒平瓦」は、京都の鹿苑寺(金 閣寺)や相国寺の瓦の影響を受けていることが指摘されています。また、福島盆地やその周辺を見ると、この「半截菊花文軒平瓦」は、伊達氏と関係する遺跡か らだけ発見されているようです。 平成 年度からは、伊達市教育委員18会により、宮脇遺跡の内容を確認するための発掘調査を進めています。発掘調査の結 果、総瓦葺と考えられる仏堂や、庭園の跡などが見つかってきています。庭園の跡の発見から、このお寺が、京都の北山文化の影響を受けている可能性が考えら れるようになってきました。北山文化の代表は、京都の鹿苑寺です。
このことからも、宮脇遺跡が、伊達家により再建された、里の霊山寺である可能性が高いことが分かってきています。

第20回 霊山(6)

「霊山寺縁起には、霊山寺が、江戸時代に寛永寺の末寺となったことが記されています。寛永寺は、徳川家光が、開基となり、天海僧正により開山された寺院で、天台宗の関東総本山となる寺院です。
しかし、霊山寺が、寛永寺の末寺となるまでには、大変な道のりが待っていたようです。奥州仕置きにより伊達家が国替えになると、伊達の地は、蒲生氏郷が治 めることとなります。縁起によれば、蒲生氏は、霊山寺の再興には消極的だったようです。 また、蒲生氏の家臣の岡佐内という人物は、霊山寺の寺領を召し上 げ、お堂などの建物を打ち壊し、その木材を会津若松へ運んだと記されています。
この時残ったのは、山頂の大宮(日枝神社)と麓の二ノ宮(日枝神社)、 鐘楼、霊山寺ばかりであったとされています。 その後、上杉景勝が治めることになっても、状況はあまり変わらなかったようです。縁起を見ると上杉家家臣の 古河善兵衛という人物は、一向宗徒であり、大石村の村民を一向宗に改宗させ、改宗に応じなったかったのは人12ばかりであったと記されています。
その後、古河善兵衛は、霊山寺を打ち破ろうとしたと記されています。 霊山寺の住持(住職)、宥源という人物は、この事態を、天海僧正に訴えでることで霊 山寺の存続を図ったようです。 縁起の内容すべてを事実として受け入れることは難しいですが、霊山寺が、寛永寺の末寺となることで存続を図ったことは充分 に考えられることと思われます。 そして、その法灯は、現在の霊山寺へと伝えられています。
※1末寺 本山の支配下にある寺院のこと
※2開基 基礎を築くこと
※3開山 寺院を開創すること

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