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伊達氏ゆかりの文化財

印刷ページ表示 更新日:2013年7月9日更新

 伊達市の文化財「伊達氏ゆかりの文化財」は、だて市政だより2011年(平成23年)1月号から2011年(平成23年)12月号に全11回にわたって掲載しました。

第1回 伊達氏発祥の地

鎌倉幕府の歴史を記録した『吾妻鏡』(あづまかがみ)という文書には、文治5年(1189年)8月8日の阿津賀志山(あつかしやま)の合戦の様子が記されています。
源頼朝による奥州合戦の口火を切ったこの戦の中で、「常陸入道念西」(ひたちにゅうどうねんさい)は、一族とともに信夫郡石那坂において信夫庄司(しのぶ のしょうじ)佐藤氏の軍勢との激戦にあたり、佐藤氏方の武将 人を討ち取ったと伝えられていま18す。この戦の功績により、「常陸入道念西」は、陸奥国 (むつのくに)伊達郡を与えられ伊達氏を名乗ることとなります。
江戸時代にまとめられた伊達家の歴史を記録した『伊達正統世次考』(だてせいとうせじこう)という文書には、伊達氏が伊達郡に入ると、高子が岡に城を築い たこと、その周辺に亀岡八幡神社を創建したことが記されています。このことから初代伊達氏が築いた居館として高子館跡が有力な場所と考えられるようになり ました。また、桑折町の下万正寺遺跡(しもまんしょうじいせき)からは、源頼朝が奥州合戦の戦没者慰霊のために創建したと伝えられる鎌倉永福寺(ようふく じ)と同じ文様の瓦が見つかっています。鎌倉時代でも古い段階から、鎌倉幕府との繋がりを見せる寺院跡の存在は、桑折が伊達氏の本拠地の候補に充分なりえ る可能性を考えさせます。このほかにも、伊達市梁川城跡周辺や桑折西山城跡周辺が伊達氏が最初に居館を築いた場所の候補地として考えられています。 これ らは、膨大な文献資料の精査の積み重ねの中で導き出された有力な候補地であり、充分な資料整理と研究に裏打ちされたものです。
それだけに、それぞれ、根拠を持った確かなものです。しかし、これらの候補地が、伊達氏が最初に築いた居館とするには、未だに資料が少なすぎるのも事実です。
伊達氏発祥の地は、今後の資料の増加により事実関係が明らかになってくることでしょう。
それまでは、常陸の住人であった中村氏が、戦の恩賞により伊達郡を賜り、伊達地域の経営を行った歴史を伊達市・伊達郡という地域が、共有していたという事実を大切にしていきたいものです。

第2回 八郎窯跡群

愛知県は、古くから窯業(ようぎょう)が盛んでした。特に知多半島では、常滑焼(とこなめやき)という焼き物が焼かれ、この製品は、中尊寺で有名な奥州平 泉 (岩手県)でもたくさん使われました。平泉は、藤原氏により築かれた都で、藤原氏は、中国産の陶磁器などとともに、この常滑焼を好んで使用していたことが 発掘調査などから明らかになってきています。
鎌倉時代になると、幕府が置かれた、鎌倉でも多くの常滑焼の製品が使われていたことがわかってきています。この他にも、中国産の陶磁器や、常滑焼と同じ愛 知県で作られた古瀬戸窯(こせとよう)の製品など沢山の物が、使われていたことがわかってきています。鎌倉には、その当時、多くの人が集まり、たくさんの 物が使われていて、都市にふさわしい様子を示していると考えられます。 伊達市の梁川町五十沢地区に「八郎窯跡」という遺跡があります。この八郎窯跡で は、常滑焼とそっくりな陶器が焼かれ、常滑窯の工人が直接指導にきていた可能性が考えられています。
焼かれた製品は、鉢・つぼ・かめで、当時の常滑窯で焼かれていた代表的な製品が作られていたことがわかります。愛知県の常滑窯の製品との比較から、この八 郎窯跡の製品は、鎌倉時代前半(1200年代)のものと考えられ、窯の操業も長くても 年位と比較的短70い期間であったことがわかっています。 八郎窯 跡は、伊達氏が伊達郡に入って間もなく操業が始まっていることや、常滑窯の工人がかかわっていることなどから、その操業には、この伊達郡を治めた、伊達氏 が深くかかわっている可能性が考えられています。
幕府が置かれた鎌倉でたくさん使われている常滑窯の製品のコピーを自分の領地で製作しようとした伊達氏の意図が見えてくるのかもしれません。

第3回 都市、梁川 伊達氏の都市構想(1)

戦国時代に終わりを告げた「関が原合戦」の直前に、梁川城は、上杉景勝の家臣であった須田長義により大きな改修を受けたと考えられています。
伊達から蒲生(がもう)・上杉と領主が変わる中、梁川城は大きく形を変え、伊達氏が築いた中世の都市は大きく姿を変えていくこととなります。 そして、この改修の大きな理由は、皮肉なことに伊達家当主である伊達政宗に備えるためであったと考えられています。
しかし、それ以前の室町時代・戦国時代には、梁川が伊達氏の本拠として機能し、町並みが整備されていきました。そして、この町並みは、現在でも地割りなど からうかがい知ることができます。また、その多くが遺跡として地中に埋もれ、貴重な情報が埋蔵されたままになっています。 今回からは、今までに蓄積され てきた研究や発掘調査の成果をもとに、室町時代から戦国時代に花開いた都市「梁川」の様子を見ていきます。 室町時代に入ると伊達氏は、現在の梁川小学校の敷地に館を構えます。そして、館の北側、現在の富野地区には、守護神として八幡神社を建立し、北東には、9 代伊達政宗の夫人の菩提寺として輪王寺を創建します。
また、南には、東昌寺というお寺を建立します。東昌寺は、伊達家が創建した寺院の中でも室町時代には、最も格式が高くなるお寺と考えられています。 そして、この輪王寺と東昌寺の間には武家屋敷群が設けられていたと考えられています。これが、戦国時代には、戦国大名として勢力を拡大していった伊達氏が築いた都市であったと考えられます。次回からは、個別に具体的な内容を見ていくことにしたいと思います。

第4回 都市、梁川 伊達氏の都市構想(2)

「やわたの八幡さま」や「富野の八幡さま」と呼ばれ親しまれている梁川八幡の創建が、いつ頃であったのかは、はっきりと分かっていません。しかし、室町時 代以降、伊達家の守護神として、また、伊達六十六郷の総鎮守としてその役割を果たしてきたことは、さまざまな資料からもうかがい知ることができます。 江 戸時代に仙台伊達藩が編纂した「伊達正統世次考」には、梁川八幡が、応永33年(1426年)に伊達家11代当主持宗により造営されたことが記されていま す。
また、これには、嘉吉元年(1441年)に輪王寺が創建されたことが記され、現在では、梁川城の整備についてもこの頃に行われたものと考えられています。  梁川八幡に関係する資料を見ると祭礼は、春と秋に行われていたようです。祭礼に当たっては、御輿渡御や流鏑馬、放生会といったさまざまな神事とともに、 児の舞・獅子舞などが奉納されていたようです。放生会は、生きた魚や鳥などを池や野に放つ儀式で、梁川八幡では、拝殿前面の池で執り行われていたと考えら れています。このほかにも、市場が開かれ盛大な祭礼が執り行われた様子がうかがわれます。 
天文5年(1536年)に制定された「塵芥集」の冒頭には、「神社のこと」と題して、祭礼は豊作・凶作に関係なく、きちんと執り行うことに努めるよう記し ています。寺社の祭礼に関することを冒頭に記していることからも、伊達家が、寺社の運営およびその祭礼を重要視していたことが分かります。その中でも、伊 達家の守護神である梁川八幡の祭礼は、特に重要な意味をもったことは疑う余地がないものと考えられます。

第5回 都市、梁川 伊達氏の都市構想(3)

現在の梁川高校グラウンド周辺には、東昌寺(とうしょうじ)という寺院があったと伝えられています。このお寺は、弘安9(1289)年ごろに伊達氏4代の伊達政依(まさより)が自分自身の菩提寺として創建した寺院であるといわれています。 
政依は、東昌寺を開山するために京都の五山のひとつである東福寺から慧雲(えうん)という僧侶を招いたといわれています。このほかにも、政依は先祖の菩提 寺として満勝寺や光明寺などの寺院を建てました。東昌寺をはじめとしたこれら五つの寺院は、京都や鎌倉にあった「五山」にならって、「伊達五山」と呼ばれ ます。このなかでも東昌寺は、伊達五山の筆頭として重要視される格式高い寺院とされました。 室町時代の1340年代には、南北朝の争いの中戦没者や後醍 醐天皇の霊を弔うために、足利尊氏により全国に「安国寺」が置かれることになります。このなかで東昌寺は、陸奥国の安国寺となります。このことは、当時の 東昌寺が東北の陸奥国においても重要な寺院であり、これは伊達氏の実力に裏打ちされたものと考えられます。 
室町時代、京都相国寺(しょうこくじ)の僧侶である瑞渓周鳳(ずいけんしゅうほう)が書いた『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)という日記には、「伊達 氏は奥州随一の豪族で、領地には寺が300ほどあり、東昌寺の僧は200人を超える」といった内容が記されています。このことからも中世の東北における伊 達氏と梁川の東昌寺の繁栄のようすがうかがえます。 東昌寺の発掘調査によると、14代稙宗の時代の1500年代前半に多くの出土品が出ており、この頃に 伊達氏が梁川でもっとも隆盛していたと考えられています。
東昌寺は、伊達氏の本拠地が移るのに合わせて、共に移動していきます。14代稙宗の後は梁川を離れ、桑折、米沢などを経由して、慶長5(1600)年、有 名な17代伊達政宗のときには仙台へと移っていきました。 このように、東昌寺は伊達五山筆頭の寺院として、常に伊達氏と共にあって運命をともにした、重 要な寺院であったのです。

第6回 都市、梁川 伊達氏の都市構想(4)

現在の梁川体育館の北側に、輪王寺という寺院がありました。輪王寺は、嘉吉元年(1441)に11代伊達持宗(もちむね)が建立しました。持宗は、祖母にあたる九代政宗の夫人「蘭庭禅尼」(らんていぜんに)の願いによって、彼女の菩提寺として創建したとされています。
政宗夫人の蘭庭禅尼は、室町幕府の三代将軍、足利義満(よしみつ)の母の妹で、義満の叔母にあたる人物です。そのため、義満の息子である六代将軍足利義教 (よしのり)は後花園天皇に求めて、「金剛峰山輪王禅寺」と書いた、天皇の直筆の額を賜りました。しかし、後に寺が火災に遭い、その額は焼失してしまった と伝えられています。また、輪王寺は伊達郡の曹洞宗寺院の中でも最も古い寺院であるといわれています。輪王寺が創建されるまでの伊達家の仏教は臨済宗であ り、輪王寺は、伊達郡の曹洞禅寺の草創となりました。 伊達氏は、梁川の後に桑折町の西山、山形県の米沢、会津若松、宮城県の岩出山そして仙台と本拠地が 移りますが、輪王寺もこれに従って移転します。
中でも、伊達氏の建てた寺院で、会津まで移転したといえる寺は輪王寺だけであるといわれており、伊達氏にとって特に重要な寺と考えられていたといえます。  輪王寺跡の発掘調査では、仏具・茶道具などさまざまなものが出土しています。このなかには床の間を飾ったと思われる瀬戸の瓶子や、天目茶碗・茶臼などの 茶道具などが含まれています。これは、伊達氏の寺院の中でも高い格式を持つ輪王寺の当時の様子を考えさせる出土品となるものです。
前回紹介した東昌寺と、輪王寺の二つの遺跡は、伊達氏の居城であった梁川城を中心として南北に対峙するように建立されています。東昌寺が南側で、輪王寺が 北側です。また、以前紹介した八幡神社なども含めて、いずれも梁川の町並みの中で軍事・交通上の要所に配置されています。
このように、伊達氏は梁川において、自身の館を中心に、輪王寺や東昌寺といった寺社を主要な位置に配置するまちづくりをおこなっていたものと考えられます。

第7回 都市、梁川 伊達氏の都市構想(5)

現在、梁川中学校がある場所は、茶臼山北遺跡に位置しています。中学校建設に先立って、平成8年から9年にかけて梁川町教育委員会により記録として保存するために発掘調査が行われました。
調査の結果、室町時代から戦国時代のたくさんの建物(掘立柱建物跡)の跡やこの建物を区画する溝跡などが確認されました。また、この遺跡からは、たくさん の出土品が見つかりました。この中でも、「かわらけ」と越前焼(えちぜんやき)の発見は目を引きます。「かわらけ」は、素焼きの皿で、主に武家の儀式の際 に宴の杯として使われたものです。茶臼山北遺跡で発見された「かわらけ」は、形などの特徴から京都の影響を受けている可能性が考えられています。また、越 前焼の甕は、福井県で造られた製品です。この当時、日本海側の製品は、太平洋側ではあまり流通しませんでした。越前焼は、桑折西山城跡でも見つかってい て、県北地方では、伊達氏と深く関わりのある遺跡だけで見つかっているようです。
このほか、茶臼山北遺跡では、お茶を嗜むための道具や、瓦などが出土しています。瓦は、お寺のお堂に葺かれていたものと考えられます。 江戸時代の初め 頃、仙台伊達藩で作ったと考えられている絵図には、梁川城の東側に輪王寺・東昌寺などのお寺跡の名が記されています。輪王寺や東昌寺は、伊達氏にとっても 大切なお寺であることは、以前に触れました。 茶臼山北遺跡は、発掘調査の結果、伊達氏の主要な家臣や血縁者の屋敷、それらに付属するお堂などが存在した ことが分かってきています。
出土した「かわらけ」から、この遺跡では、武家の儀式が執り行われた可能性も考えられます。守護館となる梁川城跡本丸東側にこのような武家屋敷群やこれに伴う仏堂などが展開した姿が明らかになりつつあります。

第8回 伊達氏の本拠の景観

現在の梁川小学校の場所は、室町時代から戦国時代にかけて伊達氏が本拠を構えた所でした。今までに行われた発掘調査では、庭園やたくさんの建物の跡が見つかっています。
同じ時代の守護館として有名なものに、福井県にある一乗谷朝倉氏館跡(いちじょうだにあさくらしやかたあと)(国指定特別史跡)があります。この朝倉氏館跡では、主殿・会所・常御殿(日常の居室)といった建物とともに、庭園が見つかっています。
これらの建物や庭園は、儀式や宴などを行う接客の場であり、武家にとっては大切な施設でした。 梁川城本丸跡を見ると、主殿や会所の役割を果たしたと考え られる建物が見つかっており、庭園も存在しています。特に会所は、庭園を前面に見られる場所に置かれています。梁川城跡も、越前国をまとめる役割を担った 守護朝倉氏の館と同様な建物が置かれ、同じような儀礼や宴が行われた様子がうかがえます。庭園を眺めながら行われた宴は、武家のステータスを示す上でも重 要な装置であり、庭園を持つ梁川城本丸跡も、守護館に匹敵する格式を持っていたと考えることができます。 また、梁川城跡の発掘調査では、「かわらけ」や 陶磁器などが発見されています。
「かわらけ」は、今までの研究から武家などが儀式に使用した器であることが分かっています。伊達郡内の他の遺跡からも「かわらけ」は出土していますが、と くに梁川城跡から最も多く「かわらけ」が発見されていることからも、伊達氏の勢力の高まりをうかがい知ることができます。

第9回 武家のステータス

室町時代後期、将軍足利義政(よしまさ)が抱えた同胞衆という芸術家の集団がいました。同胞衆は、身分の差にかかわらずその才能により集められたといわれています。
この同胞衆により編纂されたのが「君台観左右帳記」(くんだいかんそうちょうき)です。 この書物では、唐物といわれた中国を中心とした東アジアの絵画や 陶磁器、漆の製品といった美術品がランク付けされ、その価値や飾り方が示されています。この価値観の基本となったのが、将軍足利義政の邸宅(東山殿)が基 準であったとされています。 全国の守護大名は、東山殿を基本として自身の館を創建し、その中を飾りました。このことを裏付けるように全国の守護大名と呼 ばれた人物の館跡からは、唐物の茶道具、青磁の「生花」「盤」「酒海壺」「四耳壺」といった壺や皿を中心とした調度品が出土しています。 このように、当 時の大名たちは、将軍邸をモデルとした共通の価値観の基で自身の館を構え、座敷を飾っていました。
整然と配置された主殿や会所などの建物群、その中の座敷飾りとして使用された唐物などは、当時の大名たちの権威や財力を示すステータスシンボルとして使わ れたものでした。 梁川城本丸跡でも主殿や会所と考えられる建物が見つかっています。また会所と考えられる建物の前には、庭園が設けられました。
また、唐物の「天目茶碗(てんもくちゃわん)」、青磁の「盤」「酒海壺」、青白磁の「四耳壺」が見つかっています。このことは、当時の伊達家が高い価値観に基づいて自身の館である梁川城を創建したことを物語っています。

第10回 梁川城から西山城へ

伊達家十四代当主の伊達稙宗(たねむね)は、天文元(1532)年に本拠を梁川城から桑折西山城へ移したとされています。
桑折西山城に本拠を移してから伊達稙宗は、積極的に領域経営に乗り出します。天文四(1535)年には、各家一件ごとにかけられた税を取りまとめ、徴収に関する責任者の名を記した「棟役日記(むねやくにっき)」を作成します。
天文七年には、領内の田畑の面積を測り記した「段銭帳(たんせんちょう)」を作成します。この作業の中で、伊達領内の田畑の面積とそこにかかる税率を確定させていったと考えられます。また、天文五(1536)年には、伊達領内の法令集となる「塵芥集」を制定しています。
「塵芥集」には、一七一条からなるおきてが記され、その内容は、神社・寺院に関するもの、殺害や窃盗・山賊などに対するもの、用水に関するもの、土地の売 買や貸借に関することなど多岐にわたっています。 このように稙宗は、法令集の制定と徴税のしくみを強化し、自国の経営に大きく乗り出しました。そして、 これらの作業を行ったのは、守護館として機能した桑折西山城でした。伊達稙宗は、子どもたちを近隣の大名に嫁がせ勢力の拡大を図っていきます。宮城県に所 領を持つ大崎氏や亘理氏・葛西氏と養子縁組を行い、娘は、相馬氏(相馬)、蘆名氏(会津)・二階堂氏(郡山)・田村氏(三春)・懸田氏に嫁がせ縁組を行っ ています。これらの縁組を行っていく中、伊達氏の所領は、伊達郡のみならず宮城県南部や米沢方面にまで及ぶこととなります。
梁川城から桑折西山城へ本拠を移していく中で、伊達稙宗は、諸国の国人と姻戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図り、桑折西山城に移ってからは、内政の強化に 努めた様子がうかがえます。稙宗が本拠を梁川城から桑折西山城へ移した時は、室町幕府の権威も弱まり、この東北地方においても戦国時代という新しい風が吹 き出した時期だったともいえます。

第11回 梁川城から西山城へ

伊達家十四代当主の伊達稙宗(たねむね)は、天文元(1532)年に本拠を梁川城から桑折西山城へ移したとされています。
桑折西山城に本拠を移してから伊達稙宗は、積極的に領域経営に乗り出します。天文四(1535)年には、各家一件ごとにかけられた税を取りまとめ、徴収に関する責任者の名を記した「棟役日記(むねやくにっき)」を作成します。
天文七年には、領内の田畑の面積を測り記した「段銭帳(たんせんちょう)」を作成します。この作業の中で、伊達領内の田畑の面積とそこにかかる税率を確定させていったと考えられます。また、天文五(1536)年には、伊達領内の法令集となる「塵芥集」を制定しています。
「塵芥集」には、一七一条からなるおきてが記され、その内容は、神社・寺院に関するもの、殺害や窃盗・山賊などに対するもの、用水に関するもの、土地の売 買や貸借に関することなど多岐にわたっています。 このように稙宗は、法令集の制定と徴税のしくみを強化し、自国の経営に大きく乗り出しました。そして、 これらの作業を行ったのは、守護館として機能した桑折西山城でした。伊達稙宗は、子どもたちを近隣の大名に嫁がせ勢力の拡大を図っていきます。宮城県に所 領を持つ大崎氏や亘理氏・葛西氏と養子縁組を行い、娘は、相馬氏(相馬)、蘆名氏(会津)・二階堂氏(郡山)・田村氏(三春)・懸田氏に嫁がせ縁組を行っ ています。これらの縁組を行っていく中、伊達氏の所領は、伊達郡のみならず宮城県南部や米沢方面にまで及ぶこととなります。
梁川城から桑折西山城へ本拠を移していく中で、伊達稙宗は、諸国の国人と姻戚関係を結ぶことで勢力の拡大を図り、桑折西山城に移ってからは、内政の強化に 努めた様子がうかがえます。稙宗が本拠を梁川城から桑折西山城へ移した時は、室町幕府の権威も弱まり、この東北地方においても戦国時代という新しい風が吹 き出した時期だったともいえます。

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