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「地域の魅力 ふる里再発見 蠣崎波響と門人たち」は、だて市政だより2026年(令和8年)4月号から5月号に掲載されました。

「祈願成就奉納」作:蠣崎波響
伊達市梁川美術館では、令和8年度に5回の企画展を計画しています。この企画展の中から、江戸時代後半に活躍した松前藩の絵師・蠣崎波響(かきざきはきょう)と門人たちの作品を展示する「蠣崎波響と門人たち」の内容を6回に渡って紹介します。
松前藩は、文化4(1807)年に、蝦夷地(現在の北海道松前町周辺)を幕府に取り上げられました。理由はさまざまですが、幕府が蝦夷地を直接支配して、ロシアの南下に対する北方警備を強化する方針をとったことが理由として考えられています。
代わりに松前藩主松前章広(まつまえあきひろ)に与えられた領地は梁川に9千石と常陸国などを合わせた1万8千石でした。蝦夷交易の運上金により数万石の大名であった松前家にとっては非常に厳しい内容のものでした。
文化4(1807)年~文政4(1821)年の14年間、松前藩は梁川に移封となり、蠣崎波響は藩主の一族で家老職として多忙な日々を過ごしました。絵画や文学に親しみ、梁川では藩の財政を支えることも兼ねた作品制作を行っていました。門人には、保原の熊坂適山(くまさかてきざん)・蘭斎(らんさい)兄弟や霊山町大石の大橋波練(おおはしはれん)などがおり、市内には波響をはじめ門人たちの作品が数多く残されています。
この頃、「梁川八景図」(函館市指定文化財/函館市中央図書館蔵)など梁川の風景や人物を題材に多くの作品を描いており、近隣から門人も多く集まって来ました。江戸時代後半に、養蚕の町として栄えた伊達市内には、蠣崎波響をはじめ門人たちの作品が数多く保管されています。市民の皆さんのお宅にも作品が眠っているかもしれません。

「蓬莱図」作:蠣崎波響
伊達市梁川と深いゆかりがある江戸時代の画人・蠣崎波響(かきざきはきょう)。どのような人物か、皆さまはご存じでしょうか。昨年度の大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」でお笑い芸人のひょうろくさんが演じた「松前廣年(広年)(まつまえひろとし)」というと思い出す人も多いかもしれません。広年は松前藩の家老であり「波響」という画号を持つ画人でした。 松前第8代藩主・松前資広(すけひろ)の五男として生まれましたが、のちに家老職を務める蠣崎家の養子となりました。幼い頃より画技に優れ、江戸で建部凌岱(たけべりょうたい)と宋紫石(そうしせき)の二人に画を学びます。特に宋紫石からは「南蘋(なんびん)風」と呼ばれる、対象を細密に観察・写生し強烈な色彩で着彩する作風を学びました。
一方、松前藩の家老としては、異母兄である9代藩主・道広(みちひろ)と、道広の隠居後は甥でもある10代藩主・章広(あきひろ)に仕え、移封の憂き目に遭った困難な時期を支えました。
波響の有名な作品は20代後半の頃に制作した「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」という、12人のアイヌの指導者を描いた肖像画です。髪の毛や顔の皺などを細かく丁寧に、鮮やかな色彩で描いた作品です。リアルなアイヌの実像を伝えるその絵は都の人々にも驚きと賞賛を持って受け入れられ、光格天皇(こうかくてんのう)の天覧を受けるという機会にも恵まれました。
そののち、波響は円山四条(まるやましじょう)派に影響を受け、写実的でありつつも画風が穏やかなものへと変化していきました。松前藩が移封となり梁川へ来た頃の波響は40代で、広瀬川のほとりに「梅痩柳眠邨舎(ばいそうりゅうみんそんしゃ)」という邸を建て、梁川の風光明媚な場所の四季折々の姿を描いた「梁川八景図」(函館中央図書館蔵)などを制作しました。
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