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「地域の魅力 ふる里再発見 伊達市発掘調査速報展」は、令和5年度伊達市保原歴史文化資料館第3回企画展「伊達市発掘調査速報展」から、だて市政だより2024年(令和6年)2月号から4月号に掲載されました。

伊達市 長倉館跡復元図
開催中の企画展「伊達市発掘調査速報展-長倉館跡-」は、伊達小学校改修工事に伴い、令和2・4年度に行われた発掘調査の成果を展示しています。
長倉館跡は、阿武隈川左岸に発達した標高60m前後の段丘上に立地しています。現在は、伊達市立伊達小学校敷地や宅地として利用されています。
明治時代の「地籍図」から復元した長倉館は、本郭(ほんくるわ)と西ノ郭(くるわ)から構成され、堀と土塁が巡らされていました。本郭は推定東西140 m×南北130 m、幅5~20mの堀を巡らし、内側には幅10~20mの土塁が築かれ、残っている土塁から推測の高さは約3mであったと考えられます。
本郭の土塁は、明治時代に東北本線敷地の盛土に使用されました。近年は住宅地として開発され、土塁の一部が残っています。
築城年代や築城者は不明ですが、伝承では前九年の役(1051~1062)に源頼義(みなもとのよりよし)が築いた宮代館に対抗し、安倍貞任(あべのさだとう)が長倉館を築いたとされています。記録の上では、室町時代の応永7(1400)年に伊達大膳太夫政宗(だてだいぜんだゆうまさむね)(9代政宗)が一族の長倉入道(ながくらにゅうどう)と共に鎌倉公方足利満兼(かまくらくぼうあしかがみちかね)と対立し、騒乱になりました。天文11(1542)年の伊達氏「天文の乱」が勃発すると、14代稙宗(たねむね)方に味方した長倉信濃(ながくらしなの)・長倉美作(ながくらみまさか)が没落し、15代晴宗(はるむね) の長倉彦兵衛(ながくらひこべえ)の所領となりました。天正19(1591)年の伊達氏の岩出山移封に伴い廃城になりました。

鎌倉時代から戦国時代にかけての長倉館跡周辺の歴史は不明な点が多いですが、数少ない文献の記録に長倉館跡周辺の地名が確認されています。
伊達稙宗(14代)・晴宗(15代)親子が争った天文の乱(1542~1548年)前後の二人が発給した、所領の宛行状や安堵状の中に長倉館跡周辺の地名が記載されています。
長倉郷内の地名は、「弦巻田(つるまきだ)」・「北の後」・「素麺田(そうめんでん)」・「道間」・「前川原」・「東の畠」・「河原田」・「天神の前畠」・「深田」・「稲荷の後畠」・「馬場の深田」があります。そのほか宝寿寺や慈眼寺が売った田畑に「さつこ内田畠」・「河原畠」・「壇の前」・「弦巻田」・「馬場口」、吉祥庵が売った「弦巻の畠」・「沢田」・「蓬田」などの地名があり、これらは現在の旧伊達町内に字名や住宅団地の名称として使われています。
明治時代の地籍図と現在の地図を重ねると、きれいな単郭の長倉館跡が復元されます。字名の「舘ノ内」は館内部の地名で、他に「片町」・「本町」・「南堀」・「根岸」・「沓形(くつがた)」・「北後(きたうしろ)」などの字名が残っています。片町・本町は中世集落・町場の名残です。中世の奥大道から長倉館につながる道は、北側に牛頭天王を祭る八雲神社・宝寿寺などがあり、中世の景観を残していると考えられます。南堀から根岸にかけては傾斜した低湿地帯であったと考えられ、館の防御機能を果たしたと推定されます。

長倉館跡調査区全景 中世の土器・貨幣
長倉館跡は、伊達小学校の改修工事に伴い2回の発掘調査が行われています。最初は、アリーナ建設工事に伴い令和2(2020)年度に行われました。調査では、溝跡が発見され、この溝跡の中から鎌倉時代の陶器の破片なども見つかりました。この他、多くの柱の穴が見つかりました。
二回目は、講堂建築工事に伴い令和4( 2022)年度に実施されました。調査では、溝跡や建物跡・塀の跡などが見つかりました。出土品は、鎌倉時代から室町時代の陶器や磁器などの焼き物のほか貨幣(開元通寶・元豊通寶)も発見されています。貨幣は、当時(鎌倉時代から戦国時代)日本では鋳造していませんでした。中国からもたらされた貨幣が貿易などで使用されていました。
このほか2 回の調査では、平安時代の土器も発見されています。長倉館跡の周辺では、平安時代から人々が活動していたことが明らかとなりました。
鎌倉時代から室町時代、伊達小学校の周辺は、館跡の西側に町屋などが展開した可能性も考えられます。現在の長岡地区の街並みがこの時代頃から形作られ発展してきた様子が読み取れます。
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